男性はセクハラ問題に物申せない

セクハラとか男女平等の問題が出るたびに思うことがあって、

それは先進国になればなるほど、強者が弱者に対してものを言えなくなるという傾向が高いなあということです。

男女であれば男性が女性を批判するのはタブーに近いし、国民が移民に対して文句を言うのもなかなか難しかったり。

弱者への配慮がいきすぎて強者を委縮させているように私には見えます。

なので今回の財務省次官セクハラ疑惑の件で、男性が女性に反論するのは難しいでしょうね。

 

ということで、今日は政治家やマスコミの話はあまり話題に出さず自分の思いをつらつら~っと書きます。

 

私が女性記者という立場でセクハラにあったとき考えるのは、セクハラを忌避して担当を外してもらうか、それともセクハラに耐えてでも情報を取るか、ということでしょう。

セクハラという損害と情報という利益を天秤にかけるわけですね。

そこでどちらを選んでも記者の自由ですし、どちらかが正しくどちらかが間違いということはないと思います。

セクハラって変に特別扱いされますが、要は仕事相手が嫌な奴だったってことですよね。

我慢しておけばスクープを得られるかもしれないという期待があり、とりあえず耐えることを選んだとして。

それで特ダネを掴めれば耐えた甲斐があったと感じるでしょうし、何も出てこなければ我慢して損したと感じるでしょう。

それもわかります。

でも、後者だったときに、結果として己の我慢に見合わなかった、だから訴えようとなると、後出しじゃんけんに近いかなと思うんです。

要は、セクハラは後からいくらでも認定することができるというのは男性にかなり不利ではないか?ということです。

これは件の記者が卑怯だと言っているわけではありません。

記者が新潮に情報提供するに至った経緯が明確になっていないので判断が難しいんですが、記事にする前からセクハラを上司に訴えていたわけなので、情報くれないから最終的にタレ込んだとは現段階では言えません。

(って、個人のブログですら相手の気持ちを邪推して書くのはためらうのに、なんでテレビに出る人が好き勝手に財務省の心情をゲスの勘繰りできるんだろうなあ)

個別の事案としてはそうでなかったとして、一般的に後から認定できるという可能性自体は消えませんよね。

セクハラというのは被害者の感じ方で全てが決まるということですが、それを加害者側が明確に把握する術はないわけでしょう。

相手とのやりとりの中で推し量っていくしかない。忖度ですね。

女性が「一年以上会っていた」という事実をもって、男性は女性が「嫌だけど我慢した」のか「このくらいのやりとりはOK」なのかは想像するしかないわけです。

で、相手の気持ちを量り損ねた、それは「間違い」や「失敗」ではあるでしょうけど、果たして「悪」だと断罪できるかというと私は疑問なんですよね。

もちろん女性記者が最初から我慢するつもりはなく、一年以上ずーっと上司に担当替えを願い出てたとか抗議を訴えてた可能性もありますが、そこはテレ朝の事情なわけで、男性側から見るとどんな事情にせよ一年以上の付き合いがあった事実があるのみという。

 

まあ、女性からしてみれば本気で嫌がってるのわかるだろ!ってなるでしょう。

このへんから男女間で認識に差がでてくるのではないかと。

これは私の勝手な持論なんですけど、男性と女性には傾向として「察する能力」にだいぶ開きがあるのではないかと思っています。

表情とか態度とかで人の気持ちを汲んだり気遣ったりとか。

女性だとぱっと見てあーあの人笑ってるけど今むかついてるなって分かるけど、男性ではそうはいかなかったり。もちろん個人差はあります。

だからどっちが優れているとかいう話ではなく、性差として、例えば男性の方が傾向・平均的に女性より力があるみたいに違いがあるんじゃないかということです。

女も重い荷物を男と同じ時間で同じ数運んでよ、って言っても無理であるように、女性の基準で男性にこのぐらい察しろよ!って言っても、やっぱり難しいんじゃないかなあと。

するしないじゃなくて、やりたくてもできないんじゃないかと思いますよ。憶測ですけど。

なので、男性に対してこういったことを女性は嫌がるんだって研修するのも大事だと思いますが、女性に対して「男性は女性が思っている1000倍鈍い」という認識を広めていくことを同時に行った方がよいのでは?と考えるわけです。

 

ほんとに取り留めなくなっちゃった。